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「1Q84」 読後感想文

「1Q84」読みました。

BOOK1を読み終えた時点では、青豆が自分で「この世界を『1Q84』と呼ぶことにする」って定義付けちゃうのが説明臭いし突然そんな都合良くシャレたネーミングするか普通?と思ったところ以外はそれなりに村上語録をつまみながらサクサク読み進めることができた。途中から殺人、乱交、宗教、レイプとかの要素が散りばめられてきたあたりから、この小説、もしも村上春樹名義じゃなくて、たとえば村上龍名義で出ていたとしても、気付かない人は何人か居るんじゃないか、とも思ったりもしたけれど。

ともあれBOOK1最後の一文を読み終えたときには、ワクワクしてBOOK2を早く読み進めたい、という気になったのは事実。


で、BOOK2へと進んだのだけど、途中あたりからなんだか急にテンションが下がってきてしまった。登場人物がストーリーの状況を整理して丁寧に説明してくれちゃうもんだから、しかも妙に説得力のあるような人物が妙に説得力のある語り口で説明してくれちゃうもんだから、あーそういう世界なのかなーとか納得させられたような気になったり。ラスト近くで天吾が自分のアタマの中で自分の書いた文章とこの世界の相関関係を考えたりするあたりではこちらもちょっとこんがらがった感覚を心地良く楽しむことはできたけど。

そんな登場人物のセリフに説明されすぎちゃってるっていうのもあって、この物語の状況が思った以上にスンナリと入って来ちゃった。悪い意味でですけど。これまでの村上本って、もうちょっと嚼み砕かないと理解できないような物事とか、嚼み砕いても理解できないような物事とかがあちこちに置かれていて、そういうものが世界を作っていく感じがとっても面白かったんだけど(たとえば『ねじまき鳥』のノモンハンの件とか)、そういう周辺のザラッとした感じが薄くなってきていて(ギリヤーク人くらいかな)、全体的にサラッとした娯楽小説を読んでいるような気分になってきて。森とか足元にからまる雑草とかつまづきそうになる小石とかも無い世界、キレイな壁につたって目的地へと導かれているような感覚にすらなります。そのへんが、村上春樹じゃない人って言われても通用しちゃうかも、っていうところだったりするのかも。あるいは僕自身が以前よりも物事を理解しやすい大人になったっていうことなんでしょうか。

「アフターダーク」「海辺のカフカ」でも出てきた要素もいくつかあったし、もちろん同じモチーフや再利用そのものも構わないんだけど(そういえば牛河っていう人は「ねじまき」にも出てきたような。手塚治虫のヒゲオヤジみたいな使い方は面白いよね)、だいたいなんとなく読めそうな方向にストーリーが流れているような気がしちゃうっていうのも、ちょっと物足りなさの原因なのかもしれない。それはたとえば、セックスしそうなところでセックスしすぎ、とか。

そんな中で唯一救われるとすれば、天吾と父親の関係についてのやりとりかな。もちろん病院で余命幾何かの人とのシーンっていうのも常套手段ではあるけれど、語らずして語るようなシチュエーションが切なく良かった。とはいうものの、天吾が大柄で柔道やってた人っていう印象はまったく無くて、これまでの村上小説の主人公と同じ背格好・性格の人物をイメージして読み進んでいたことは確か。それで全然支障無いんだけど。

「BOOK3」が出るかも、っていうウワサもあります。たしかにBOOK1が〈4月〜6月〉、BOOK2が〈7月〜9月〉となっていたら、まだ〈10月〜12月〉まであるもんな、1Q84年は。そのための「BOOK2」の散らかし加減、ということであれば期待もしないわけには行かないですが、どうなることでしょう。僕としては、もうBOOK3は「空気さなぎ」の原文そのものでもいいんじゃないか、という気すらする。そっちの結末をちゃんと読みたいよ。

posted by tsukada at 15 / 06 / 2009  03:11
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